夏の終 私と蚊取り線香

掴めそうなぐらいまとわりつく、晩夏の夜風。じんわりへばりつくのは汗か湿度か。試しに手を握ってみたが、空を掴むだけだった。窓を閉めて、蚊取り線香に火をつける。別に夏は好きでも嫌いでも無い。これが最後の蚊取り線香だった。



秋の境目は今日なのかもしれない、ふとそう思った。
 意識していた訳では無かったが、ヒグラシの声をしばらく聴いていない。ただ、蟋蟀や鈴虫も鳴いている様子は無く、じっとりと絡む熱が日々に残っていたので、秋の訪れは実感できないでいた。
今は夏のことが好きでも嫌いでもないけれど、金木犀の香りを鼻腔が見つけた頃に、ああそうか、夏はもう終わってしまったんだ、とほんの少し寂しく思う。基本的に家に籠る生活が続いている所為で、季節の移ろいに気づきにくくなってしまった。それでも、6月にばっさりベリーショートにした髪型がセミロングになってきたことで、肉体的には時間の変化に振り落されていないんだなあなんて、ぼんやり感じていた。

夏は使うものが凄く多い、種類も量も。そんな気がする。例えばクーラーや扇風機。冷蔵庫を埋め尽くす買い溜めしたレモンサワー、無限に作り続けなきゃいけない氷。身に着ける物で言えばサンダル、大量に用意するTシャツと手持ち扇風機なんかもそうだ。夏以外であまりお目に掛かるものじゃない、少なくとも私にとっては。

夏と聞いて想うのは使うものが多いということだけではない。矢鱈と風物詩も多い。私は元々出不精だったり年齢も三十路に足を掛けている為、「お祭り」とか「花火」や「キャンプ」みたいなこれぞ夏の風物詩からは段々疎遠になってしまっている。ああいった風物詩は自分の中で、幼い頃を謳歌するための儀式だと、一線を引いていた。

だからこそ、なのかもしれない。蚊取り線香は凄く好きだった。蚊がいなくても、焚いたりしてしまう。あの匂いを肺いっぱいに溜め込むと、微かにタイムスリップした感覚を味わえる。北茨城に住む母方の祖母が作るぬか漬け。奈良は王子市にある父方の祖父母邸で、従兄妹たちと駆け回ったこと。父に連れられ、大型バイクの後ろに跨った目的もない遠出や、寝かせたがる母を横目に焚火で姉と遅くまで盛り上がったキャンプとか。目の前に溜まった洗濯物の束をぼーっと眺めながら、そういった郷愁が刹那的に頭を駆け巡る。羽虫たちにとっての毒は、私にとっても毒だった。

私にとっての夏は、今を生きる自分が過ごしている季節を指し示す言葉ではない。あんなに鬱陶しく纏わりつく熱気なんかじゃない。だからもし、今日で夏が終わります、と言われたとて私には関係ないのだ。蚊取り線香をつけてさえすればいい。蚊やショウジョウバエが居ようが居まいがなんて話じゃない。そうすれば、ただずっと夏の中に居られる。今年の夏はいつもより多めに蚊取り線香を買い込んでいるから、なんにも心配はない。



暑さのせいで、普段よりも仕事が進まない。蝉が鳴きだす茹だる温度は人間に適したものではないのだ。部屋の中ではキーボードを叩く音と、マウスのクリック音、そして蝉の声がごちゃごちゃと鳴っていた。新種のウイルスが世界中で猛威を奮った影響で、私はここ半年ぐらい在宅ワークを行っている。電気代の節約目的で、クーラーをケチるもんじゃないなと思いつつ、頼りない扇風機を止めて、廊下の冷蔵庫へ向かった。ロング缶と350mlサイズの二本のレモンサワーを取り出し、今日はもうお開きにしようと、長い方の缶のプルタブを鳴らした。
一口目を流し込む前に仕事用の携帯を見て、画面には02:00を示す時刻だけが表示されていることを確認し、少し安心した。先輩やクライアントからSMSの通知が来ていたら、プルタブの開いた缶を冷蔵庫に戻さなくてはならなかったからだ。在宅仕事になってからの方が労働時間は伸びていた。中堅広告代理店の営業部隊にいる私にとって36協定は元々あってないようなものだった。その上、裁量労働制という魔法の言葉がより一層拘束をきつくし、おまけにずっと在宅しているもんだから、なんの言い訳もできない。まだ、時々空の打合せがある振りをして帰宅していたあの頃の方が上手く時間を使えていた。
それにしても、だ。SMSが来ていないのは良いことだったが、普段使っているプライベート用携帯の画面も、ただ時刻を示すだけだった。メッセージアプリの通知が来ていない。
卓也からの連絡が途絶えて、もう二週間は経つ。奥多摩の河原で焚火をしようなんて誘ってきた日取りも、とうに過ぎている。ただ、こんな自分にとっては数少ない友人だったし、どうせまたあっけらかんと謝罪してくるだろうと考えられるぐらい、こんな状況にも慣れていた。
蚊取り線香に火をつけ、幼い頃に想いを馳せる。いつから自分には色々な鎖が巻かれたのだろう。そもそもしがらみは生まれた時からあって、自分がだんだん自覚していっただけなのかもしれない。机に突っ伏す形で、まだ一口しか飲んでいないレモンサワーの缶と、後ろのテレビに交互に焦点を合わせながら、そんなことを考えていた。
蚊取り線香が燻る時間はこんなことすら残酷に突き付けてきたりすることをすっかり忘れていた。今日は、夏が嫌いだった。



大人にとっての強さは、何かを少しずつ捨てていくことだと、この年齢でようやくわかってきた。捨てる、とは行かないまでも、優先順位をつけて大事なものと、大事じゃないものにだんだんとグラデーションをつけていくのだろう。そして、一般社会が声高に大切だ!と宣言しているものを濃く塗っておかないと、爪弾きになる。少なくとも周りに対しては、私が濃く塗りつぶしている箇所は皆さんと同じですよ、だから大丈夫ですよ、とアピールしておかないと、他のグラデーション部分を矢継ぎ早に土足で踏まれてしまう。
理解できず、しようともせず、はじき合い、ぶつかってしまったところで、あたかもそんなことは起きていない体で、そっと横を通り抜ける。私はこの作業があまり得意ではなかった。
仕事携帯の画面を見るとSMSの通知が溜まっていた。時刻は朝の四時になりそうだ。昨晩急に振ってきた、朝締切の資料を作るためずっとパソコンに向き合っていた。携帯から意識を背けていた為、二十二時から二十三時に掛けて大量の通知が来ていた。クライアントからのものは一つもなく、全部一緒に動いている人間からだった。また別件の資料依頼と、それ以外の殆どはその返事の催促だ。恐らく、二十三時の段階で、ようやく私が反応できない理由を察したのだろう。先ほどまで作っていた資料もその人間からの指示だったが、そんなことさえすっかり忘れてしまえるのだから質が悪い。
心の中で毒づきながら、先ほど作っていた資料をパソコンからメールで送付しつつ、携帯の方に来ていたSMSにも、謝罪と資料を送付した報告、新しい依頼の詳細確認まで入れておいた。もちろん、そのメッセージが「開封済み」と表示されることはなかった。恐らくあの人のことだから、新しい依頼の締切もすぐやってくる、今晩中とかそんなものだろうことはわかっていたが、どうせ返信が来るのは早くても昼過ぎだろう。
このように、自分が専任しているクライアント用の作業時間は纏まって取れず、毎度尻切れトンボで終わってしまうことにも、もう慣れていたので、なるべく隙間時間で小まめに提案資料の作成を進めていた。その甲斐あって、プレゼンの日まではまだ幾許かの余裕があったが、殆どの作業が終わっている。あとは関係各所から念のための正誤チェックを待つだけだ、と改めて自分を少しだけ褒めてやった後、仮眠をとるために廊下の硬い床に横になった。浅く眠り、六時には起き、十二時までの間で各所からの回答を巻き取ってしまおう。本当はもうちょっと遅くまで寝ていられる筈だったので、今の状況を恨めしく思ったが、あのSMSが来ていた以上しょうがない。そう言い聞かせ、目を閉じた。





ただ淡々とつつがなく、息を殺すように仕事を進行していたら、ある日ぽっかり空きが出来た。しばらく営業の手離れが出来るタイミングが奇跡的にどの案件でも重なったのだ。とりあえず溜まりに溜まった有休を使うことにしたものの、細かいやり取りは都度発生するだろうから、仕事用の携帯は肌身離さず持ち歩かなければならない。
最高のリフレッシュ、とまでは行かないが今の私にはそれで十分だった。
例の、彼から依頼された資料は案の定締切がその日中だったし、専任クライアントのプレゼンも上手いこと終わった。ただ、そんな感想しか出ない程、無心だった。だからこそ、今日みたいに空きが出来た途端、何をすればいいのかわからなくなる。
結局、久方振りに昼過ぎに起きて、一旦溜まってしまった洗濯物を退治することにした。洗濯物を干しながら、何をするか決める、ということだけ決めた。洗い終わりを待つ間、何本かの不在着信に対応しながら、蚊取り線香を切らしていることに気づいた。私にとっては、夏と、在宅ワーク戦争を生き抜く必需品は蚊取り線香とレモンサワーだけなのに、とんだ失態だった。まだ洗濯が終わるまで時間がありそうだったため、薬局へ向かった。
薬局で山積みにされている蚊取り線香を見た途端ふと、それ一つ買うためだけに外出した自分が酷く惨めに思えた。
そんなやり場のない惨めさを紛らわすために、蚊取り線香を三缶買った。こんな量をこの夏だけで使い切ることは思えなかったが、秋になろうが冬になろうが焚けばいい。この煙を吸っている間は夏に帰れる。レジの店員が何の反応も示さなかったことが救いだった。何か反応されたら、つい言い訳をしてしまいそうになるが、そんなことを考える為に頭を使いたくなかった。
少し重たい買い物袋を持つ帰路、袋を覗くと蚊取り線香を眺めて、バカバカしくなった。毎年沢山使っているのに、ちゃんと買い込んでいなかった自分や、そんなことを考える余裕すら無かった自分。段々とバカバカしさから元の惨めな感情が産まれ、胸の奥が一瞬苦しくなった。変な意地から使い切るつもりもない無駄遣いをした自分も、やっぱり惨めに思える。
その逡巡の間ずっと、右ポケットからは着信音が鳴っていた。



水分を含んだ洗濯物は重く、洗濯機から出すだけで一苦労だった。この動作をあと2回繰り返す必要がある。気が遠くなる作業だ。一巡目の洗濯物の山を眺めながら、蚊取り線香から燻いでいる煙を吸い込む。何のしがらみも無く、誰とでも話したり、走り回って遊んでいた頃の自分に想いを廻らす。
仕事用の携帯には通知も無く、電話が鳴る様子も無さそうだ。自分の携帯を確認する、やはり卓也から何の通知も入っていなかった。いや、誰からも何の連絡も来ていなかった。何だか世界から取り残された気がした。
卓也からの連絡がこんなにが途絶えるのは大学で知り合ってから、初めてのことだった。それぐらい仲が良く、他愛もない雑談をしょっちゅうしていた。だから卓也が好きだった。大方、私に関する噂を誰かから聞いたのかもしれない。そう考えると、私が何を気にして、自分から連絡を送っていなかったのかも、もう分からなかった。もう何の理由も無かった。仕事用の電話が五月蝿い。どうでも良いや、せっかくだから奥多摩の河原の焚き火にしよう。あの山奥に入れば、電波も入らないだろう、二台の携帯を気にしない自分への言い訳が出来る。
そうと決めたら早かった、レンタカーを借りて、昼に買った蚊取り線香だけ放り込み、道中で一人用のテント、薪、着火剤、ライターを購入し、薬局に寄ってから山奥へどんどん吸い込まれて行った。